これ、私の経験です。
20年以上前のこと・・・。
入社して1ケ月後に慰安旅行。全額会社負担でグアムへ行きました。
初めての海外!なんていい会社だろうって思っていました。
私は総務部経理課へ配属となり、最初は伝票整理やデータ入力の日々。
月日が経ち、そして会社の経営状況がわかり債務超過にビックリしました。
会社の規模からいってありえない借入金でした。
経験した日常
頻繁に銀行から電話があり、上司はいつも手形を遠方まで回収に行っていました。
経理とはそういうものなんだと思っていた私は、
しばらくして銀行からの借入返済などの打診、手形をすぐ銀行へ割引くため取引先まで
わざわざ足を運んでいたことなど普通じゃないことを知ったのです。
ある日、上司は手形回収のため取引先の営業時間に合わせて朝から車で出かけました。
高速道路での帰り途中にエンジンが故障。遅くなると電話がかかってきました。
その日の15時頃、銀行から電話がかかってきました。
「このままだと不渡りになりますよ。」
銀行員の声は焦っていたというより私には呆れていたように見受けられました。
まさしく自転車操業で担当の銀行員さんもこの先はみえていたのだと思います。
部長にこのことを伝え事なきを得ましたが、その場をしのいだだけで1年もしないうちに不渡りで倒産しました。
そして倒産
当時は民事再生法が施行される前の時代だったと記憶しています。
従業員の給料は2ケ月未払い。
当然、取引先は払っていなかったので債権者集会など裁判手続きがその後に続きました。
残務整理もしました。
”未払賃金立替払制度”で給料未払を国が立て替えて払ってくれる制度を
申請するために従業員全員の資料を作成した記憶があります。
そんな経験を踏まえて、なぜ倒産に陥ったのか?役員の意識はどうだったのか?検証していきたいと思います。
なぜ倒産に陥ったのか?
・手許現金・預金が月商の1ケ月分もない。
→自転車操業だったのでここに尽きる。
大手自動車会社の製造ラインの機械を製造していたため単価が大きくて納入までも期間がかかる。
手形回収前に下請けの支払いが先行するため、借入金がかさんでいた。
毎月の借入返済額が収益で全くまかなえていない。
この負のスパイラルを繰り返すたびに借入金が膨らんでいったとおもわれる。
→手形による売掛金回収をやめ、代わりに利益相当分の売上割引を行うなど現金による早期回収をはかるなどの努力はしていない。
常に慣例によったやり方で回収方法の交渉、相談すらしていない。
・原価管理に基づいた価格設定を行い、赤字や薄利の製品や受注の見直し
→作業工程の見直しや現場の意識改革を行い材料ロスの削減の改善、原材料価格、外注費、賃貸料など諸費用を見直しや値下げ交渉もしていない。
→赤字の受注と分かっていながらも他社との競合による受注の減少により資金繰り悪化を恐れ見直すこともなくほとんど言い値で受注。営業課も全く機能していない。
・不要な設備が多い
→3工場あったが、第2工場の半分と第3工場の半分はいつも空いていた。
集約し、余剰となった工場を売却するか貸していれば収入を生むことができた。
役員の意識はどうだったのか?
・社長、役員の公私混同による過大な支出がある
→特に社長の交際費が多かった。注意するものが居なかったことと注意する立場の人間が一緒に飲みに行っていた。
個人的な飲食も経費、また飲みに行けば仕事がもらえるという感覚は当たり前にあった。
・役員報酬・賞与、役員数、社員数が多い
→役員報酬は当時の社長の仕事ぶりからしても多額。当時から気になっていたのは残業する人が多かった。
残業代で稼いでいる人も結構いた。
まとめ
どう考えても倒産する末路にあります。
社長の役目は極めて重要です。社員に任せて左うちわのつもりでいたのかも知れませんが、やることをやっていない社長に社員はついていくわけありません。
数十年は続いてきた会社でしたのでバブル景気の時は一時的によかったのかも知れません。
先を見通すことが出来なかった事と社長に意見する人がいなかったこと、
もちろん聞く耳を持たなかった社長の船に一緒に乗っていた社員は転覆してしまいます。
会社のビジョンや理念は何だったのでしょう。何も掲げていなかったのかも知れません。
数十年前のことなので今はそんな社長はたぶん不景気で淘汰されていると思います。
ダメ社長から学べること
驕れるもの久しからず、ただ春の夜の夢のごとし
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