祖父の死から四十九日。

雑 記

いつも元気な顔しかみたことがない祖父が他界しました。

享年93歳の大往生でした。

このコロナ禍で一度も入院中に足を運べなかったことが残念です。

しかし、入院も50日程度で長患いすることもなく、調子のいい日は妹たちに電話をしていたようで亡くなる直前までやはり元気だったのだと安心しました。

息子(叔父)の弔辞で親戚一同泣きました。

祖父からいえば、息子、娘、孫、ひ孫、妹・・など一同泣きました。

みんなから愛されていたのだなとつくづく感じました。

祖父は8人兄弟長男の家督で今まで家を守ってきました。

今でも4世帯家族で気苦労も多かっただろうと察します。

祖父が結婚した時は、年の離れた妹らもおり、息子、娘(私の母)に、父、母の大所帯で稼ぎ頭だったのはいうまでもありません。

祖父、祖母は自分の子供に加え妹までも育てあげました。

そのことについて妹はお葬式でも感謝していました。

祖母の立場を考えると、姑に舅、義妹4人もいたので大変だっただろうなとつくづく思います。

私にとっては今でもお茶目なおばあちゃんです。

そんな祖父の亡骸は93歳とはおもえないほどしっかりしたものでした。

火葬場の方が30代です!と驚いてみえました。確かに綺麗でした。

喉仏と指仏が少なくとも5体、あと足仏もありました。これも珍しいとのことです。

指仏は手の指先、足仏は足の指先の骨で“仏”の形をしています。

祖父の妹は、前日の夜伽時によく人に施していた近所のおばあさんに指仏があったと話していました。

(地域によって言い方は違うのかも知れませんが、この地域では指仏ではなく爪観音というようです。)

その時、初めて指仏というのがあるのだと知りました。

指仏は“手元供養”といってペンダントに入れたりするようで、娘(私の母)は、大事にハンカチにくるんでいました。

祖父は野菜やワサビなどをつくり、よく人に振舞っていました。

私も今までたくさんもらいました。野菜の種類も多岐にわたり、とても家庭菜園で収まらないほどの量でした。

どれも美味しかったです。

最後に会った去年のお盆

私は仕事で慣れない山林の評価をしている話をしました。

祖父は財産評価基準書の山林評価や、

バブル当時はゴルフ場開発者に山林の評価などをしてゴルフ場の購入額を試算していたので

山林に関してエキスパートでした。

30年以上前の当時のことを昨日のことのように喜んで私に話し、

当時の貴重なファイルなども見せてもらいました。

それをコピーして保管してあるので唯一、私にとって形に残る思い出の品となりました。

あのいきいきした表情が今も目に焼き付いています。

いつも元気でよく話し到底90代とは思えないほど顔の血色も良かったです。

この元気を受け継いでいけたらいいなあと実感しています。

本当に今まで元気をくれてありがとう。

 

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